第27回最優秀作品(中学生の部)
第27回国際交流・国際理解のための
小中学生による作文コンクール最優秀作品(中学生の部)
「個性」
甲府市立南西中学校 三年 加藤 彩花
お国柄、なんて言葉がある通り、世界の国々にはそれぞれ異なった考えや文化などが存在します。外国の人と交流をしていると、たとえば私の悩みごとをまったく別の視点からとらえて解決させてしまったり、悪気なくやった行動が失礼だと言われたりすることが多々あります。そしてその都度、世界にはこんな考え方があるのか、と感心してしまうのです。
私の一番身近な外国の人といえば、同じ音楽教室に通っている少年です。彼はドイツ人で、体格が日本人よりしっかりしているためか、私たちにはおよそできないと思われる演奏も卒なくこなしてしまいます。さらにドイツといえばシューマンやシューベルト、パッヘルベルやバッハのように、歴史に名を残す偉大な作曲家を大勢輩出した音楽の国でもあります。そんな国で生まれたときから音楽に囲まれて育ってきた彼は、音楽に対して圧倒的なポテンシャルを持っていました。それは、技術はもちろんのこと、その精神についても言えることです。
小学六年生のころ、私ははじめてウィーンに行きました。ウィーンとはオーストリアの街のことで、ドイツ以上に音楽のあふれる都です。特に私の大好きな音楽家でもあるショパンが活躍した場所だということもあり、私はわくわくした気持ちで街の中を歩いていました。音楽の都、という名前は伊達じゃないと感じる程に、街のあちこちから楽器の音が聞こえてきます。そしてその中に、ひときわ輝く美しい旋律を見つけました。聞き間違えるはずもない、それはショパンの幻想即興曲という曲でした。早いテンポにたくさんの調号など、それはいわゆる「難曲」に部類される曲なのですが、演奏には一回のミスもありません。どんな人が弾いているのか気になった私は、その音の持ち主を見て硬直したのです。私と同じ年くらいの、小さな女の子でした。
私はそれがきっかけとなり、人生で初めてのスランプになりました。今の私がどんなに頑張ってもできないことを、自分よりも小さい女の子がやっているのが悔しかったのだと思います。才能がある人にはどんな努力をしたところで適わないのに、どうして私は一日何時間も費やしてまで練習しているのだろう。そんなことを帰国後も考え続けていると、何かを感じ取ったドイツ人の彼に何かあったのかと尋ねられました。そして私が悩みを相談したとき、彼は言いました。
才能なんて言葉は、努力しなかった人が言い訳に使う言葉だ、と。自分より上手い演奏者がいるのが悔しいなら、その人より上手くなればいいだけの話だろう、と彼は笑ったのです。私のなかのもやもやした感情が、すべて振っ切れたような気分でした。
それから私は、今の自分に足りないのは楽器の経験だと判断し、とにかくがむしゃらに色々な曲を弾きました。私はピアノを始めた時期が他の子よりもずっと遅く、曲を完成させる経験が足りなかったのです。休日は睡眠時間などを八時間以内に抑え、残った時間を全てピアノに注ぎ込みました。食事は昼に片手で食べるおにぎりひとつのみ。食べている間もおにぎりを持っていないほうの手は練習、という毎日を繰り返していると、自分が上達していることが確実に分かり嬉しくなりました。
そして秋のある日、音楽の教師に卒業式の伴奏をしてほしいと言われたとき、私は泣いて喜びました。私のピアノはちゃんと必要とされるんだ、天才じゃなくても認めてもらえるんだと思うと、これまでの辛い練習の苦しさすら忘れてしまうようでした。
その日に、「卒業式の伴奏をやることになったよ。」とドイツ人の少年に伝えると、彼は良かったねと言いました。あなたのおかげで、と付け足せば今度は「知ってる。」と不敵に笑われ、少しだけ悔しくなりました。
そして中学三年生になった今、私の音が好きだと言ってくれるクラスメイトに囲まれていると、才能なんてなくても良いかなとすら思えます。私は天才ではないけれど、私の音は世界にたったひとつしかない大事な宝物で、もしそれを好きと言ってくれる人がひとりでもいてくれたら、充分なのです。
日本人は物事を消極的に考えすぎだ、と彼は言っていました。確かにその通りだと納得し、もっと外国の人たちと関わる機会が増えれば日本人の考え方も変わるかもしれないと感じました。
ひとりひとりの個性があって、時にぶつかり合い、ときに支え合う。国が違えば中身も違って、いろいろなことを学ばせてくれる。音と人はよく似ていると、私は思います。